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そもそも、能の起源とは?

能の起源は、千数百年以上もの昔、古代の日本に、遠くアジアの西域からシルクロードを経て伝来した、散楽(さんがく)という芸能にさかのぼります。散楽は、滑稽な物まねや寸劇、曲芸、奇術、軽業、幻術などの大衆芸能で、奈良時代には、宮中の散楽戸(さんがくこ)という組織で保護されました。その後、散楽戸は廃止され、徐々に民衆の中へ、日本各地へ広がります。

平安時代になると、散楽と土着の芸能が融合した多彩な芸能が生まれます。その一つが猿楽で、この猿楽こそが、能楽の直接の母体です。さて、この頃には、農耕行事から発生した田楽という芸能も盛んに行われていました。猿楽や田楽では歌舞の劇として「能」を演じるようになり、それぞれ、猿楽の能、田楽の能と呼ばれました。そしてこれらの芸を行う役者集団の「座(ざ)」が各地で活動するようになります。座は寺社に所属し、法会(ほうえ)、祭礼等で集まった人々に芸を披露しました。

猿楽の能が大きな発展を遂げたのは、南北朝から室町時代の頃です。都では当初、抽象的な舞を主体とした田楽が人気でしたが、そのうち芸術的な洗練がなされた猿楽の座が台頭します。特に、大和国(奈良県)を本拠とする大和猿楽四座が、都で人気を得て、室町幕府の庇護を背景に、勢力を伸ばしました。大和猿楽四座は今の能楽の各流儀の源です。外山(とび)座が宝生流に、結崎(ゆうざき)座が観世流に、坂戸(さかと/さかど)座が金剛流に、円満井(えんまんい/えまい)座が金春流に、それぞれ受け継がれています。

大和猿楽四座のうち、結崎座の観阿弥は、物まね芸主体の猿楽に、中世の流行曲の曲(クセ)舞などを取り入れ、能の演劇性を高めました。さらに観阿弥の子、世阿弥は、より洗練された芸を追求し、夢幻能の仕組みを確立して、能の芸術的な進化を導きました。こうして猿楽の能は、現在に通じる仮面劇・歌舞劇の総合芸術として、大成されました。

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室町時代に足利義政御殿で猿楽興行を鑑賞する武将の様子を描いた錦絵。
錦絵「東山殿猿楽興行図」貞秀(江戸時代後期)〔国立能楽堂所蔵〕

世阿弥以降、一時的な衰退もありましたが、猿楽の能はその後、武士に広まり、繁栄します。特に豊臣秀吉は能を好み、自らも盛んに舞い、大いに支援しました。後の徳川幕府も能に熱心で、幕府の式楽と定めて後援しました。能役者は幕府や各藩に仕え、儀式での演能や武家の稽古に携わりました。この江戸時代には、喜多流も成立しました。

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江戸時代に描かれた宝生流の演能図。
「能狂言画帖」能 宝生流 羽衣(江戸時代後期)〔国立能楽堂所蔵〕

明治維新により、能は衰亡の危機を迎えます。いくつかの流儀は断絶しますが、財閥や華族の後援を得て盛り返し、より大衆的な芸能として発展します。この明治時代に能と狂言は、猿楽から「能楽」と呼ばれるようになり、現在に至る基盤が作られました。こうして能楽は、鑑賞とともに、謡や仕舞のお稽古ごとの面でも、誰でも楽しめる芸能として裾野を広げてきました。日本の誇るべき大切な芸能であり、世界の評価も高く、ユネスコの世界無形遺産に指定されています。