ホーム > 宝生流とは > 宝生流の歴史

宝生流の歴史

宝生流の源流とは

現在のシテ方宝生流は、大和猿楽四座のうち、外山(とび)座を源流としています。大和国外山崎(現在の奈良県桜井市外山)を拠点としたことからこう呼ばれ、藤原鎌足の廟所として尊崇を集めた多武峰(とうのみね)寺〔談山(たんざん)神社〕に属して活動していました。外山は、古代日本の黎明にその名を記された由緒ある土地です。神武天皇、天武天皇の伝説に彩られ、数々の古跡、古社があります。そのうちの一つ、宗像神社の境内入り口付近には、「能楽宝生流発祥の地」の碑も建てられています。

世阿弥の芸談『申楽談儀』の(二三、猿楽の諸座)には「大和、竹田の座、出合の座、宝生の座と打ち入り〱あり。」という記述があります。竹田の座は後の金春座、出合の座は山田猿楽という座の母体です。これは大和四座が固まる前の、同地域の古い座について述べたもので、宝生座が古くからあったことを示します。「打ち入り〱あり」というのは、婚姻関係や交流の深さを表しています。『申楽談儀』には続いて、「山田に、みの(美濃)大夫と云人、やうし(養子)してありしが、三人の子をまうく。宝生大夫ちやくし(嫡子)、生一中、観世おとゝ(弟)、三人、此人の流れ也」とも記されています。山田猿楽の、美濃大夫という人が迎えた養子に三人の子が生まれ、それが宝生大夫、生一、観世(観阿弥のこと)だった、という記述です。

一方、宝生家に伝わる系図では、宝生流の初代は蓮阿弥といい、観阿弥の子で世阿弥の弟となっています。さらに蓮阿弥以前に二代あり、蓮阿弥は白石大輔武邦という人物の養子となっています。ところが観世家の系図では、観阿弥の兄弟に宝生の名はなく、蓮阿弥の名は世阿弥の甥で、音阿弥の弟として出てきます。観阿弥の兄とされる宝生大夫と、宝生家初代の蓮阿弥に、どんなつながりがあるかは不明ですが、宝生座が初代・蓮阿弥の以前より、活発に活動していたことは確かです。

また芸統の近い観世座とは、競演も多かったようです。たとえば永享元年(1429)には、室町幕府の花の御所の笠懸馬場にて、宝生座は、観世座らとともに立合能に臨み、本物の馬や甲冑を使って、「一谷先陣(二度の掛)」を演じ、人々を驚かせたと伝えられています。

室町時代の宝生座はまた、清和源氏の流れをくむ武家の名門、山名宗全(持豊)の支持を受けました。文安元年(1444)には、山名氏の後援のもと、来迎堂勧進のため、土御門河原で勧進能も興行しました。

宝生家の大夫たち

歴史上、あいまいなところもありますが、ここでは宝生家の系図に沿い、歴代大夫の事跡(江戸時代まで)をたどります。

初代 蓮阿弥(れんあみ)【?~1468没】

系図では観阿弥の子、宝生の流祖です。記録に残る範囲では、興福寺薪能、若宮祭礼能などに参勤しました。後援者である山名氏の屋敷での演能記録もあります。

二代 宗阿弥(そうあみ)【?~1498没】

蓮阿弥の子。興福寺薪能に例年参勤し、法楽の猿楽(神仏奉納の能)などさまざまな猿楽の催しに参加しました。足利将軍家に仕え、文明七年(1475)に賀茂で勧進能を行うなど、この代は、宝生座に勢力があったようです。文明十五年(1483)には周防(山口県)の大内氏の館に滞在、演能や指導を行った記録もあり、地方にも勢力を伸ばしていたことが窺えます。

三代 養阿弥(ようあみ)【?~1524没】

宗阿弥の子。興福寺薪能、そのほかの寺社、武家での演能が記録されています。将軍家に仕えました。明応6年(1497)には三輪神社で勧進能を催しました。系図傍書には、晩年、関東の上杉氏に仕えたと記されています。

四代 一閑(いっかん)【?~1558没】

養阿弥の子。鼻が高く、面の裏を削って合わせたという逸話から、「鼻高宝生」と呼ばれました。代々、将軍家に仕えてきた宝生家ですが、幕府衰退に伴い、一閑は小田原の北条早雲のもとに身を寄せました。そのため興福寺薪能への参勤も少なくなりました。一閑は技芸で名手と評されたうえ、系図傍書には、武芸にも秀でていたと記されています。後に服部四郎左衛門勝政と名乗りました。

五代 重勝(しげかつ)〔宝山(ほうざん)〕【?~1544〔一説に1572〕没】

養子(第六代観世大夫道見元広の子)。「小宝生(または古宝生)」と呼ばれた名手です。乱拍子を得意とし、その習得にあたって小鼓から習いはじめたほど研究熱心で、堅実な芸を磨きあげたといわれます。また身軽な人で、「道成寺」では鐘の中に取り付いたまま鐘を引き上げさせ、ややあってヒラリと下り、観る者を感嘆させたというエピソードもあります。晩年は一閑と同じく、小田原の北条氏に仕えましたが、系図傍書には、北条家滅亡後に大和国へ帰ったと記されています。

また重勝の子、元盛〔元尚〕は、重勝の兄にして名人・七代観世大夫宗節の養嗣子となり観世大夫を継ぎました。宝生家と観世家は室町時代から縁戚関係にあり、芸の系統、芸風も近く、上掛りと呼ばれています。

六代 勝吉(かつよし)〔九郎、忠勝、道奇(道喜)〕【?~1630没】

養子(七代金剛大夫氏正(鼻金剛と呼ばれた名人)の子)。当時は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ら戦国武将が天下統一を進めた時代です。能に耽溺し、自らも盛んに舞った秀吉は、衰退した興福寺薪能を復興させ、大和猿楽四座の大夫に扶持を与えるなど、能を手厚く庇護しました。勝吉は、秀吉が大陸進出の陣を構えた名護屋城にも召し出され、後に扶持九百六十石を賜っています。

徳川家康もまた能を好み、庇護し、大和猿楽四座の能は、徳川幕府の式楽に定められました。大夫たちも扶持を与えられ、将軍家や諸大名らの指導にもあたりました。勝吉と家康の縁はといえば、あるとき勝吉は浜松城の家康のもとによばれ、「芭蕉」を舞い、徳川家に召されるようになったといいます。勝吉は、技芸でも名手といわれましたが、武勇の誉れ高く、大阪夏の陣に東軍の小笠原秀政に従って出陣して活躍し、家康の恩賞を受けています。

七代 重房(しげふさ)〔九郎、日休〕【1665没・70歳】

勝吉の子。勝吉の隠居〔元和二年(1616)〕を受けて大夫を継ぎ、寛永八年(1631)六月に浅草で四日間の勧進能を興行しました。

八代 重友(しげとも)〔九郎、将監(しょうげん)、日証〕【1685没・67歳】

重房の子。寛永一三年(1636)、重房隠居を受けて大夫を継ぎ、徳川将軍家の四代家綱、五代綱吉に仕えました。古将監と呼ばれる名手で、和漢の学にも通じ、伝書を残しています。万治二年(1659)五月、京都で四日間の勧進能を、また寛文三年(1663)七月に江戸鉄砲洲で四日間の勧進能を催しました。なお重友の三男の重世は、俳句をよくし蕉門に入って雛屋の跡を継ぎ、沾圃(せんぽ)と名乗りました。

九代 友春(ともはる)〔九郎、将監、日楽〕【1728没・75歳】

将軍家には綱吉から家宣、家継、吉宗にわたる四代に仕えました。宝生流を贔屓にした五代綱吉より、手厚い支援を受けて流勢を拡大したほか、請われて加賀藩の前田綱紀の指南役ともなり、同地における宝生流隆盛の礎を築きました。友春はまた、貞享四年(1687)、江戸本所で四日間の勧進能を興行しています。

十代 暢栄(まさはる)〔将監、可徹〕【1730没・32歳】

友春の子。越前の松平家に仕えていましたが、兄三人の早世のため、江戸へ戻り、大夫を継ぎました。しかし大夫継承後、二年ほどで逝去しました。

十一代 友精(ともきよ)〔九郎、宗怙〕【1772没・59歳】

養子(ワキ方宝生新次郎の子)。吉宗、家重、家治の、三代の将軍に仕えました。宝生流中興の祖と言われる名手です。流儀繁栄を願い、春日大明神を深く信仰していた友精は、ある夜、明神より矢を一筋賜る夢を見て、宝生家の家紋を、それまでの八本矢車から九本矢車に改めたと言われています。

十二代 友通(ともみち)〔九郎、了味〕【1775没・30歳】

養子(金剛大夫氏福の子)。大夫を継いで後、わずか四年で逝去しました。

十三代 友勝(ともかつ)〔多門、九郎、玄達〕【1791没・25歳?】

養子(観世織部清尚の子)。継承当時は幼少であったため、分家の宝生弥五郎英勝(分家四代目の宝生弥三郎(明喬)の子、後に十四代大夫)が後見役となりました。

十四代 英勝(ふさかつ)〔弥五郎、将監、義可〕【1811没】

養子(分家四代目の宝生弥三郎(明喬)の子)。友勝の嫡子、丹次郎が幼かったため、後見役であった英勝が大夫を継ぎました。「後の将監」と呼ばれる名手で、宝生流の謡を今に伝わるように改めたと言われています。この頃、一橋徳川家より将軍となった家斉は、生家が贔屓にしていた宝生流を嗜み、引き立てました。将軍家、一橋家の後押しを受けて、英勝は流儀の隆盛を導きます。英勝はまた、一橋家の後援を得て、寛政十一年(1799)に宝生流最初の謡本「寛政版」を出版しました。完成度が高く、豪華で品格ある謡本の上梓は、英勝の優れた業績として、後の世まで高く評価されています。

十五代 友于(ともゆき)〔石之助、弥五郎、紫雪〕【1863没・65歳】

英勝の孫(英勝の女婿、邦保の子)。英勝は、嗣子であった友勝の子、丹次郎が早世したため、婿に入った邦保(くにやす)〔権五郎〕を後嗣としました。しかし邦保も英勝に先立って亡くなったため、孫の友于が大夫を継ぎます。友于は幼名を石之助といい、これは生まれた日に、英勝と邦保が江戸城大奥にて「石橋 連獅子」を勤めていたことに由来すると言われています。

友于は家斉、家慶の両将軍の指南役となり、宝生流は引き続き隆盛し、栄光の時代を迎えます。この時代の輝く事績は、弘化勧進能の興行です。これは弘化五年(1848)二月六日~五月十三日、晴天十五日間にわたり江戸神田筋違橋門外にて、宝生大夫一世一代能として行われた、江戸時代最後の勧進能です。観客は一日平均四千人を数えるという大盛況で、友于と長男の石之助(後の九郎知栄)とともに、全国から役者が集まり、舞台を盛り上げました。番組でも、「春日龍神 白頭別ノ習(龍神揃)」といった大人数の新演出も生まれました。数々の金字塔を打ち建てた一大イベントとして、弘化勧進能は、時代を超えて語り継がれています。

友于はこのほか、嘉永六年(1853)に「嘉永版」謡本を出版するなど、さまざまな業績を残した後、九郎知栄に大夫を継承し、金沢に隠棲して同地で亡くなりました。

参考資料: 『宝生流のはなし(改訂版)』(わんや編輯部・著、わんや書店、昭和60年刊) 『宝生』第3号〔2010年3・4月号〕「特集 宝生の源流を訪ねて~宝生流略史~」(西野春雄・寄稿)